瘡蓋
家にいる年長のほうの猫の左後ろ足の外側の指の爪が根元のあたりから剥がれてしまっており、恐らく年少のほうの猫との取っ組み合いの末の負傷であるのだろうが、赤い肉が生々しく見えているのでこの爪は新しく生えてきてくれるのだろうかと心配にかられている
怪我をした当日も家の白いフローリングの床に血が乾いたあとの茶色が点々としていたが、数日経ってそれより鮮やかな赤色の点々が散見されていて、かさぶたが何かの拍子か自らのグルーミングで舐め取れてしまったかで落ちてしまったのだろうけれども、前にも似たような状態になっていたことがあるので、また同じように生えてきてくれるだろうと楽観していたのだがそのときはそのようなことはなかったので治りにくいたぐいのもので悪化してしまわないだろうかと危惧しているのだ
配偶者が家を空けている
今夜は親族の法事の予定が入っており、自分も参加する予定であったのだが、体調が先々月下旬から思わしくなく、体調だけならまだしも気分の変調も著しいので一週間前に辞退の連絡を伴侶から伴侶の実家へ入れてもらっていた
22時を過ぎて車で駅に向かうために家人は家を出た
猫とともに家人のいない夜を過ごすのは初めてだ
今夜はテイクアウトの寿司が夕飯だったのだが、そのときにメニューを見ながらお好みで一貫ずつ選べるという注文のしかただったので私の注文を忘れないようにと家人が手書きでメモを取ってから電話口で発注していたため机の上にその手書きのメモが残っていた
パソコンを起動したときに近くにあったこのひとの手書きの文字が目に映って、婚前に交換日記をしていたことを思い出しとても懐かしいと感じた、そんなこともしていた、あのひとはそんなことやりたいと言い出したりしない、私から提案したのだ、交際相手としてみたいと言って
私の欲望をいつも叶えてくれるひとなのだ
いつでも私の望みを叶えてくれた
服も靴も家も食べ物も酒もなんでも買ってくれた、家のことは料理も食器洗いも買い物も洗濯も毎日してくれる、猫も迎えてくれた、言ったことを覚えていなくても言われたことに生返事をして聞いていないと言っても非難しないし、私の両親や私の兄弟のこともいやそうにせず聞いてくれる、子供を産まないでもよしとしてくれる、体調が悪くて医者にかからずに仕事をしてつらそうにしても不満をぶつけたりしないでいてくれる、そこにいてくれる
そんなできたひとの子供なら、産みたいって思ったら、いいのにさ
何度もこのループを繰り返しているので、飽き飽きだ
そんな奇跡のようなひとがいない夜が、私は心地がよくて、お酒を飲むのさえも惜しく思えてしまうほどなのだ
他人のいない夜が生きていると必要なのに、生きているためには他人と暮らしていないと不便ですというこの心を、私は認めないといけないのかなあ、受け入れないといけないのかなあ、愛せないなんて言わずに、矛盾が美しいと誰かに言われたいと虫のいい戯言をいえる年嵩でもないのに
他人用の自分と本来の自分の乖離が激しいのでストレスと業務中もふらつく意識をやっとのことで支えているのだが家ではそんなことはないと思っていた極楽だと思っていた
そんなことないこと、なかったんだな
やっと落ち着いたと思える
自分のことだけを考えていられる
家人が私のことをやってくれたと思わなくていい、心配させていると思わなくていい
他人のことを考えなくていい
私はずっと私のことだけを考えていたかったのかもしれない
それができなくてつらかったのかもしれない
でも伴侶はあたたかいので、冬は寒いので、手放せなくなってしまうのだ
あたたかさの代償が大きくても、手放せなくなってしまうのだ
あたたかさの前では、手前勝手の神経症など無意味と成り果てる
くらくらする
猫しかいない、人間は家の中にいない
私の意識を映す他人はこの空間にはいない
安心する、くらくらするほど
結局、配偶者として選んだそのひとも、私の内側のひとではなかった、私はそれをわかっていてそのひとを選んだし、承知のことで、私が内側のひととして意識した他人はことごとく私を見なかったので、しかたのないことだった、そういう人間を次に見つける前に私は今のひとと近づいてしまったので、引き返す理由は(それ以外に)なかったから、ここに住めていることに不満もない
ただ私は伴侶の前でさえも、なんでも言いたいことを言うなんにもしない妻という装いをしているふしがあり、やりたいようにやっているはずに、ほんの僅かの乖離を認めてしまう
私は私がやりたいことをきちんとわかるのがとても下手糞なのでそれだから欲望の発露が雑でそれでも見当外れというわけでもなく欲望は満たされるから表面上それで済まされてしまうけどそこのズレは他人にはわからなくても自分は気付いている
ズレの蓄積に耐えられなくなる
しばしば不定愁訴に陥るのはこれだと考えているけど、もう、手癖として染みついてしまっているのでどうしたらいいのかわからない
時々ちゃんと自分の世界に入るように活字で読書ができればいいのだけれども、読書の筋力が落ちているので少しつらい
もう少し運動していれば良かったかもしれない、わからないけれども
瘡蓋がはがれて生乾きの傷跡が剥き出しになっているような気分が停滞していて、それは変わらないのに自分の意識を反射させる人間がいない状況に安堵の味を覚えるものだから、こんなところに安らぎめいたものがあったらとても困る私の幸せを壊すつもりかと芝居掛かった打算が一丁前の口で非難を寄越す
猫が玄関や窓のあたりをうろうろとして不満げに鳴いている、自分の給仕係兼寝床係がいないことに気付き腹を立てているのだろう